ありがとうめぞん一刻 (ランジャタイ伊藤)

中学校の卒業式、僕は号泣していた。中学の3年間を過ごした学び舎で、それぞれが友達との別れを惜しみ、またこれから無限の未来へと羽ばたいていく。美しい時間と感情の未来へのるつぼ、仰げば尊しを歌いながら声を殺して咽び泣く皆のその姿は、その涙一粒一粒が青春の雫そのものであり、青い涙で一杯になった体育館はまるで青春の海のようだった。

しかし、友達もほぼいなかった僕にはそんなことはまったくどうでもよく、涙に込められた想いははただ一つで、

『音無響子さんは現実にはいないんだ』

3年生の秋、偉大なるめぞん一刻を読み終えてしまった僕は放心状態になっていた。一巻の途中くらいから完全に響子さんに恋してしまっていた僕は、授業なんてまるで身に入らず、五代くんに自分を重ね、もし自分がもし一刻館に入居したら、なんてめくるめく妄想を日々繰り広げていた。

やがてどうあがいても響子さんがいないという事実に絶望し、響子ロスに陥り、そのピークが卒業式に来てしまい、響子さんがいないという現実に1人顔を伏せ号泣していたのだ。青春の海で溺れ、鯉のようにぱくぱくと水面で口を開けていた。きっと餌に紛れて唾を吐きかけられても気付かず間抜けに吸い込んだことだろう。重い身体に妄想の浮き輪をつけて、ぎりぎりぷかぷかと漂流していた。

そしてそのまま僕は大人になった。

21歳の晩秋、僕はすごく童貞だった。相も変わらず、一刻館に住みたいなあなんて、現実と妄想の狭間で漂流していた。身体は大人だけど心は子どものままであった。それまでほとんど女性とまともに会話したこともなく、ほぼ女性に触れたこともなかった。このままではまずい。なんでこんなことになったのだろう。
原因を自分なりに探ってみると、まず子どもの頃はあまりお風呂に入っていなかった。(お風呂に入り頭を洗いすぎるとはげるという父の熱心な教えを間に受けていた。父は洗いすぎてはげたらしかった。しかし、親戚の集まりに行くと、父の父から兄弟に至るまで全員はげており、おそらくただの遺伝だった。僕はいつかはげの血が発現し、自分も急にはげるのではと怯えている。その血のスイッチを押すことになるのではないかと、一度も髪を染めたことがない。)なのでおそらく日常的にくさかったし、太っていた。(今はとても綺麗にしているよ!)それだけでもう女の子に好かれるはずがない。なんだかやな感じ。

決定的に女性が苦手になったきっかけになったのは、体育倉庫十字架磔金玉殴られ事件だった。簡単に言うと、小学生の時、ほんの出来心で移動教室の時に好きな女の子の席に座ってしまい、授業が終わった後伊藤が座ったらしいという話をその子が聞いて泣きだした。
その原罪により、女の子たちの手によって体育倉庫でバスケゴールと平均台を組み合わせた十字架で磔刑に処された僕は「お前に金玉はいらない!!」と次々と金玉にれんぞくパンチをくらった。その威力は、女子一人一人がまるでガルーラかエビワラーかといった勢いで、僕はめのまえがまっくらになった。その時ほんの少しだけ、イエス・キリストと一緒になれたような気がした。
その帰り道、田舎道をとぼとぼと歩いていると車に少しはねられて豚小屋に突っ込んだ。驚いた豚たちがブー!ブー!と大騒ぎして走り回っていた。豚さんごめんね。軽くだったので身体は無事だった。僕は学校を卒業するまで、体育倉庫のことを、ゴルゴダの部屋と呼んでいた。(幼少期はキリスト教系の幼稚園に通っていたため多少知識はあった。)

そんなことを思い返しながら、6畳一間の狭い部屋で、もう何度目かわからない、めぞん一刻の一気読みを終えた僕は決意した。

彼女を作ろう!五代くんと響子さんみたいになりたい!
そして五代くんと響子さんのような関係を築こう。(やばい)
音無響子さんのような人を探そう。(やばい)

その為にはまず、女性と話せるようにならなければならない。このまま待っていてもきっと何も起こらない。60年後、1人で6畳一間の万年床に横たわり、めぞん一刻を読み耽る自分を想像すると、震えが止まらない。恐ろしい。いけない、幸せになりたい。

一念発起した僕は、出会い系サイトに登録することにした。それで彼女が出来るかはわからないが、そこで知り合った女性と話す練習をして、徐々に苦手意識を克服しようという作戦である。何事も慣れが肝心である。

しばらくは勝手がわからなくて困ったりもしたが、(顔が写った全裸の写メを送れと要求され、そういうものかと危なく送りそうになったりした)やがてそれとは別の1人の女性とメールが続くようになり、お互いの写真も交換し、電話で話しましょうということになった。写真の女性はとても綺麗だった。恐る恐る電話番号を押し、繋がった電話口から聞こえてくる声はとても可憐で、「なんだか好きだな、これは運命の相手かもしれない」と思ったりした。
作戦は、この人と付き合って結婚しよう作戦に変わった。そのまま1時間ほどお話をして、それだけでも当時の自分からしたらとんでもない奇跡なのに良かったらお会いしましょうということになった。

約束の日まで1週間、もう気が気ではない毎日を過ごし、漫才のネタ合わせにもまったく身が入らない日々だった。何をどうしたらうまく行くのだろう。僕は、「女性を楽しませる100の会話」的な本を買い込み、熱心に研究を重ね、何度もシュミレーションをし、さらにはその1週間毎日筋トレをして走って体を整え、出来る限りの準備をしてその日に備えた。

当日の夜、早めに待ち合わせ場所について、意味もなくそわそわうろうろしていた。街はこれから迎えるクリスマスシーズンの準備に入ったような感じで、なんだか浮き足だっていた。「はじめまして。」そう声をかけてくれた、目の前に現れたその人は、信じられないくらい綺麗な人だった。この人が、僕の響子さんなのかもしれない。「この日のために生きてきたんだ!」とまで思いいたり、なんだか今までのことがすべて報われるような気がした。ただ一つ気になったことは、その日は1日、快晴だったのに、その女性は透明なピンクのビニール傘を持っていた。

・・・続く

文・ランジャタイ 伊藤幸司

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