パトカー破壊、会社倒産… 狂気の現場『いつかギラギラする日』

1980年代から90年代にかけて、低迷する日本映画界で強烈なリーダーシップと個性で、数々のヒット作を世に送り出した映画プロデューサー・奥山和由。
業界の異端児が映画を志すことになったキッカケから、突然の松竹追放劇までを包み隠さずに語った『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』(文藝春秋)。日本映画への深い愛を数々の著作で綴ってきた映画史・時代劇研究家の春日太一を聞き手に、自身にとって特別な存在だったという深作欣二について振り返っている。

もともと、くすぶっていた学生時代に奥山は深作監督の『仁義なき戦い』シリーズ(1973年〜)を代表とする当時流行していた東映の実録やくざ路線に熱中していたという。その後、映画の制作現場に飛び込んで当時の停滞する映画界の状況を知り、それを変えるには映画会社で「中枢に入って改革しないと何もできない」と気付いた奥山。はじめに入社を希望したのは深作の作品の多くを製作していた東映だったというが、自身の父親が重役だった松竹に入社することになり、紆余曲折を経てプロデューサーを職業として選ぶことになる。そして、奥山がプロデューサーとしてヒットメーカーになろうと決意したのは、深作監督に認めてもらいたいという一心だったと振り返っている。

クエンティン・タランティーノやジョン・ウーといった世界的な監督たちもリスペクトする深作欣二。『仁義なき戦い』シリーズ(1973年〜)や『バトル・ロワイアル』(2000年)といったバイオレンス映画の印象が強いが、深作には“暴力を描くことで暴力を否定する”という考えが根底にあった。そして、いくら批判されようとその作風を最後まで変えることがなかった強い反骨精神を持った作家でもあった。奥山は、東京大空襲で死体を処理するために駆り出されたという深作のエピソードを引き合いに、“人はいつか必ず死ぬ”という絶望感にも似た達観を持っていたのではないか、そしてその経験から生きている間にエネルギーを燃やし尽くそうとする気概があったのではないかと分析している。そして、奥山は「善も悪もない」「幸も不幸もない」「正しいも間違っているもない」「行けるところまで行くだけ」という深作の生き様が自身に重なったと振り返る。

「憧れすぎて逆に近づいてはいけない遠い存在だった」と、深作をかなり神格化した存在としていた奥山は、プロデューサーになって10年目にいよいよ深作作品を担当する。主演・萩原健一の『いつかギラギラする日』(1992年)だ。当時、奥山は、社内の了解なく映画製作ができる環境を作り上げるという意気込みで巨匠との仕事に挑む。

深作のガンが発病するトラブルに見舞われるも製作を押し進めた奥山。撮影中のスケジュールが滞っても「ワンカットたりともあの人は譲らない」と、深作のアクションに対する執着はすさまじかったと振り返る。カーアクションのシーンでは、もともとは撮影用にレンタルしたパトカーをジャンプして飛び越えるはずだったが、監督が内緒でその上を車で走らせサイレンをすべて破壊。結局すべての車両を買い取ることになったという。その後も車を海に突っ込ませたり、やりたい放題だったそうだ。ただ、熱情をもって暴力を撮影する深作をだれも止められなかったという。

そのような撮影を続けることで予算は大きく膨らんだようで、当初3億円ほどだった予算は、最終的に11億円にまで達したと言われている。そのため、関わっていたプロダクション会社が実際に倒産したというのだから驚きだ。本来ならばブレーキ役とならなければいけない奥山だったが、深作の熱に当てられて「自分も含め誰かが犠牲になるなら、仕方がない」と思っていたという。そして「やっちゃえ、やっちゃえ」と予算超過を犯罪的に“良し”とした現場だったと振り返る。

興行の収支だけに責任を求められ「アホみたいな仕事」と奥山が自虐的に語るプロデューサー業だが、彼は自分が認めた才能が満足してくれることが大前提にあり、才能への奉仕こそがプロデューサーの幸せである」と語っている。そして深作のことを「それを最も感じさせてくれる天才」だと称賛し、深作の制作現場は映画作りというよりも、生きている実感を感じられる“狂気の幸福感のるつぼ”だったと表現している。

奥山がプロデューサーの幸せをかみしめた作品だったが、これをきっかけに松竹との亀裂は大きくなり、1998年の突然の追放劇へとつながっていく。深作作品も含め、映画界の風雲児・奥山が手掛けた作品の今ではありえないような現場の秘話が満載の一冊なので、ぜひご一読を。

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