ジョブズ復帰でアップル社内はどう変わったか | Apple Japan 元マーケティングコミュニケーション部長・河南順一 #2

#1 倒産寸前だったアップルの復活前夜

スティーブ・ジョブズは、1997年のボストン・マックワールドで暫定CEOとしてアップルに復帰すると発表。けれど、社内ではジョブズのビジネスの手腕について懸念を抱いている人も少なくなかったと河南氏は話す。

「暫定CEO」として復帰したスティーブ・ジョブズ

大熊:スティーブが帰ってきて社内はどう変わりましたか?

河南:もうあらゆることが、180度変わりました。まずは乱立していた事業部を全部整理してパソコンだけにフォーカスするということになりました。リストラも大々的にやって、プリンターだとか、モニターだとかも全部切りました。
一番びっくりしたのは「ニュートン」というPDA(パーソナル・デジタル・アシスタント)も切ったことです。「ニュートン」は今のスマホの前身みたいな製品で、非常にアップル的で、斬新で、これは続けるだろうとみんなが思っていたのに、スティーブはそれも切った。とにかく原点に立ち返って、パソコンとOSだけにフォーカスするということでした。

プロダクトの次は、地に落ちたブランドを変えることになります。それまでは、いろんな国、例えば、日本は日本で独自のことをやっていたのですが、それを全部世界で統一することになった。そして、スティーブ・ジョブズの直下で戦略を立てて始まったのが、ブランドキャンペーンの「Think different」です。
われわれのマーケティングコミュニケーションのチームは、本国でスティーブの直下にいる人たちと一緒に仕事をする形になりました。私は、物理的には日本にいるので、当時のアップル・ジャパンの原田社長(元アップルコンピュータ株式会社代表取締役社長、原田泳幸氏)に報告します。組織的にも、予算的にも日本に紐づいているのですが、日常の業務だとかはすべてスティーブの下にいる人たちに報告して、仕事はすべてスティーブの承認を得ないとダメという形でした。

そうやって組織が変わって、実際にマーケティングでやることも変わった。それまで当たり前だと思っていたこともすべて否定というか、「創造的破壊」が起きた。広告の考え方だとか、展開の仕方だとか、それまでの常識とはすべてが違いました。
例えば、当時、秋葉原の販売店などに行くと、パソコンが置いてあって、横にカタログが積んであって、みんなそれを持ち帰って、研究して、買うみたいな流れでしたけれど、アップルでは今後一切カタログを作らないということになった。私は広報もやっていましたが、記者会見の時に用意していたQAも今後は作らないことになった。これは情報を漏らさないためでもあります。

社内の情報共有の仕方も変わりました。例えば、社内でiMacを開発している時も、開発チームの中でもiMacの担当者以外は、それが公に発表されるまで、その存在を一切知らなかったりします。
スティーブが戻ってきて彼の考えと会社全体の波調が合うようにまでにしばらく時間がかかったように思います。私の感覚としては半年くらいでしょうか。スティーブの言うことを自分なりに消化しながら、時には間違いも犯して、スティーブの下でマーケティング・コミュニケーションを見ていたスティーブ・ウィルハイトにこっぴどく怒られもしました。
日本のマーケティング・コミュニケーションのチームが勝手なものを作って、それがスティーブの目に触れると、ウィルハイトのチームのメンバーが大変なことになるので、ちょっと間違ったことをすると、すごい喧嘩になります(笑)「こんな、とんでもないことやりやがって」と言われて、「何がとんでもないんだ」みたいなことになって、それがうまく収まって、段々と会社全体の波調が合ってくるような感じです。

大熊:スティーブは全て見ていたのでしょうか?

河南:全部をつぶさに見るというのは、もちろん物理的に無理な部分があるので、スティーブは担当ごとにバイスプレジデントを置いて、彼らに全権限を渡しています。なので、彼らが一番気を張っていて、他の社員が変なことしないよう、つぶさに監視しているような状況でした。それでも、スティーブ自身が細かいことに直接入ってくることも少なからずありました。

ジョブズにアップルを立て直せるのか?

大熊:そうした取り組みだと人が離れていってしまいそうですね。

河南:やっぱり離れて行く人もいますよね。スティーブが戻ってきたけれど、「本当にスティーブで大丈夫なのかな」と私も思っていた時期があります。理由としては、スティーブがジョン・スカリーに追い出されて、そのあと何をやっていたかというと、NeXT(スティーブ・ジョブズが1985年に設立したコンピューター企業で、「NeXTSTEP」オペレーティングシステムなどを開発)を立ち上げていますが、NeXTは全然広がっていなかった。もともとビジネスの手腕がなくてアップルを追い出されたという部分もあるわけです。

スティーブがアップルに戻って来たのも、当時のアップルのOSは全然信頼性がなく、競争優位性もなかったので、OSの核となる部分を探していた。それで、IBMを含め、3社か4社を検討して、最終的にNeXTの買収を決めたという経緯でした。(買収に伴い、ジョブズはアップルの非常勤顧問に復帰する)
スティーブ自身はPixar(1986年、スティーブはルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収してPixarを設立)で成功していたので、彼自身は仕事に困っているわけでもなかった。なので、スティーブはNeXTを売り込む策としてアップルにアプローチしてきて、自分はNeXTから手を引き、Pixarを続けるのではないかという憶測が広がっていました。

それに、スティーブはアメリオが社長の時にアドバイザーとして入って、それから暫定CEOになりますが、正式なCEOになるのは結構後のことです。「『暫定』と付いているのは、なんでかな?」というところで憶測が広がった。スティーブ自身も、最初はアップルをどうしようかなって迷っていたところがあったみたいですね。「本当にアップルをテコ入れしてやるんだ」って決めるまでちょっと時差があったように思います。

大熊:それは、社員は不安ですよね。

河南:社員は不安だし、「Think different」のキャンペーンをやって、これはすごいってなりましたけど、まだ業績は戻ってないわけです。
当然、この会社にいてもダメだって普通は考える。他社から引き抜きの話も来るし、「なんでアップルなんかに残っているの、とんでもない間違いだよね」とみんなから言われる。真っ当に考えると、理屈ではその通りで。
社内には、他社へ移っていく人がいる一方で、スティーブに熱狂的な人もいたり、そういう熱狂的な人と同じ感じでは盛り上がれないなと思う人もいたりして。社内は揺れる人、離れる人、スティーブに信じて入れ込む人で分かれていました。

大熊:河南さんは揺れなかったのですか?

河南:実は、辞表を出したんですけど(笑)
ヘッドハンターからの連絡がどんどん来て、「そんな会社にいるのはとんでもない間違いだ」って実際言われるわけです。提示されるオファーを比べると「…確かに」と。

ただ、その頃、日本の方でもいろんなことがありました。原田社長は、日本に帰って来る前はアメリカでコンシューマー部門のバイスプレジデントをやっていて、ステイーブ・ジョブズが戻って来るタイミングで、日本の社長として来ることになった。
原田さんが戻ってきた時に「これから巻き返したいよね」といった話をしました。他にも何人かと話をして、それで、もうちょっと頑張ってみようかなと。「辞表はなしにしようね」みたいな話もして。

大熊:そんなこと実際あるんですね。

河南:誰も会社に残らなかったかもしれないので、原田さんは社長として、最低限のオペレーションができるように人を置かなきゃいけないと思っていたのだと思います。それで、たまたまそういうふうになった。私だけでなく、多分他にもそういうケースはあったと思います。
ただ、実際、その当時、みんながアップルを見放していたし、社員も自信がなかった。どの社員を見ても、みんな目が死んでいましたし(笑)
私自身も私のグループから何人かリストラ対象になり。密に色々信頼してやっていた人を送りださなきゃいけない状況があって、それを伝えなきゃいけなくて、残っても大変だし、去るのも大変な時期でした。

(次回:#3 ティム・クックが変えたビジネスモデル

河南順一/Junichi Kawaminami
同志社大学大学院ビジネス研究科(同志社ビジネススクール)教授。同志社大学商学部卒業、アリゾナ州立大学W.P. Carey School of Business MBA修了。日本マクドナルド、アップルジャパンなどに勤務。ディレクターとしてマーケティング、ブランドマネジメント、広告宣伝、広報、危機管理、エバンジェリスト、社長室などを統括。アップルでThink differentを掲げたブランド戦略の展開、マクドナルドでCEOコミュニケーションの一新を担うなど、ブランド再生や企業イメージの刷新に携わる。

大熊希美/Nozomi Okuma
スタートアップやテクノロジーについて書くライター/翻訳家。ケン・シーガル著『最強のシンプル思考』(日経BP社)を翻訳したご縁で今回の取材を担当させていただきました。

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