バスケやっていた時代に、Bリーグがあったら目指してた (カミナリたくみ)

人気漫才コンビ「カミナリ」の石田たくみ氏がHIPHOPについて喋り倒す連載の番外編。今回のテーマは、バスケットボール。「当時Bリーグがあったら目指してた」ぐらいバスケに本気で取り組んできたたくみ氏。バスケ部あるあるからファッション、カルチャーまで話を聞いてきた。

たくみ:どうも、富樫勇樹です。

―確かに!めっちゃ似てます(笑)!

たくみ:よく似てるって言われるんですよ(笑)。
バスケは小学校から中学・高校、大学はサークルだけどやってました。ガチでやってましたね。ポジションはずっとPG(ポイントガード)で、同学年の他の子たちより少し早めにユニフォームをもらえる程度にはやってましたね。

―バスケにハマった一番のきっかけとは?

たくみ:バスケは兄ちゃんの影響で始めたんですけど、親父が家の庭にバスケのリングを買ってくれたんです。休みの日や放課後に兄ちゃんと一緒にそこでバスケをやってました。当時は、まずボールがリングに届く兄ちゃんの姿を見るだけでカッコいいなと思ってたんです。あんな小っせえ輪っかに入れんの、すげえなって。だから兄ちゃんへの憧れから始まって、一緒に同じミニバスに入るっていう流れでしたね。

―好きだったNBAのチームや選手はいますか?

バスケを始めた当時は、やっぱりシカゴ・ブルズでしたね、それしか知らないってくらい。ジョーダン、ピッペン、ロッドマン……。それが1997~1998年、小3の頃ですかね。衛星放送で試合を観るとかではなくて、ミニバスのコーチがジョーダンのプレイをまとめたVHSを遠征に行くバスの中で見せてくれたりとかして。
僕は小学生の頃ずっとチビだったので、ジョーダンの姿を見ても「多分ああはなれないだろうな」っていうのは分かってましたね、ポジションも違うし。だから、ただただカッコいいなあって見てました。

初めてNBAで「この人みたいにがんばろう」って思えたのは中1の時、アレン・アイバーソンを知った時です。カッコ良かった!2001年、コービーやオニールのレイカーズ対アイバーソンとムトンボのセブンティシクサーズのファイナルとか痺れましたね。

―バスケがヒップホップに興味を持つ入り口にもなりましたか?

ここでもやっぱり兄ちゃんの影響がデカくて、兄ちゃんが高校3年生でブレイクダンスを始めるんですよ。僕が中学2年の時です。それで実家のメロン農家の作業場で、親父たちの仕事が終わったらダンボール敷いて、ずっとウィンドミルの練習してたんです。その隣で僕は、ずっとバスケのシュート練習してたっていう。だから、そこで兄ちゃんが流してる音楽をずっと聴いたりはしていました。モブ・ディープとかギャング・スター、ノーティー・バイ・ネイチャー、ソウルズ・オブ・ミスチーフとかですかね。

―アメリカじゃないですか!

そうです、アメリカです(笑)。普通にメロン農家の作業場なんですけど。あと、中学生のときに大人たちのクラブチームみたいなものがあったんですよ、ママさんバレー的な。そのとき皆さんがカッコいい曲をかけながらバスケしてたんですよね。
それと同時期に、大学生だった相方のまなぶの姉ちゃんの影響で、アンダーグランドのもの含め日本語ラップを聴くようになったんです。

ON/OFF問わずウェアを着るなら絶対にNIKE

―バスケ部って基本お洒落な奴が多くないですか? 

そうかもしれないですね。ファッションは「スラムダンク」の影響も大きいと思いますね。見開きとかで載ってた宮城リョータとか、流川が学ランの胸を開いてバーン!と「JAPAN」見せつけるやつとか(笑)
ただ、自分ルールで、バスケの試合では絶対にヘアワックスつけないようにしてました。カッコつけすぎて試合の時にヘアワックスとかつけると調子悪いってことに気づいて。なに女の目ぇ気にしてんだ!? みたいな(笑)。そんな暇あるならシュート練習しろ! って。

―バスケをファッションに取り入れたりしていましたか?

高校生の頃はよく“バスパン”穿いてました。僕は身長が小さかったので、やりすぎるとダサいからサイズ感にはこだわってましたね。あと、パーカーとバスパンの相性の良さ。

ジャージはカジュアルなものと合わせてスポーティーな部分とのバランスを取ったり。さすがに上下ジャージだと試合中の人なので(笑)。最近はレブロンとかがタイトに着こなすのもカッコいいですよね。
僕らの時代のジャージは大きめだったので、カッコつけてフリースロー中はジャージに腕を入れたりしてましたね(笑)。そういえば県大会でベスト4まで行ったチームは県名を背負うことが許されるんですよ。僕らも中学の時に県大会で優勝して、関東大会ベスト4進出で全国大会に行ったときに“茨城”と背中に入って、皆で「おぉー!」ってなりましたね。

―バッシュは何を履いてましたか?

高校の時は、NIKEから田臥選手のシグネチャーモデル(AIR ZOOM BRAVE)が出たので、それを履くようになりました。エア ジョーダン 12とかエア ペニー 1も履いてましたね。当時は、バッシュから選手の名前を覚えるっていう流れもありましたね。それこそピッペンとか。

―ファッションでもバッシュを合わせる感じですか?

でもバスケ部だったので、“バッシュを外履きにする”っていうことにすごく抵抗があったんですよ!(笑)。バッシュで少しでも外を歩くとコーチにめっちゃ怒られたので。なのでオフは当時からエアフォース1やダンク、ブレザーとかコルテッツとか。外履きもNIKEが多かったかな。
当時からON/OFF問わずウェアを着るなら絶対にNIKEでしたね。僕にとって、NIKEと聞いて最初に思い浮かぶスポーツがバスケなんですよね。引退した野球部員が髪を伸ばし始めてNIKEを着たりしてるのを見ると、なんで白球を追ってたヤツがNIKEなんだよ!とか思っちゃってましたから(笑)。

ちなみに、まなぶはずっとサッカー部だったんですけど、ヒップホップを聴くようになってから「なんで俺、バスケやらなかったんだろう」って悩んでましたよ(笑)。いまはグッチとか着るようになっちゃいましたけど、その前まではゴリゴリにバスケ部だなってファッションだったんですよ。

必死にバスケをやっていた時代にBリーグがあったら、そこを目指して頑張っていた

―たくみさんがバスケに熱中していた時代から、現在のバスケ環境はどう変わったとお感じですか?

当時はまだBリーグはなく実業団でしたし、正直言うと日本人選手は田臥(勇太)選手や折茂(武彦)選手しか知らなかったんです。なので能代工高などをインターハイで観るのが好きでしたね。いまでは沢山の人にプロバスケが浸透していますけど、もし僕が必死にバスケをやっていた時代にBリーグがあったら、そこを目指して頑張っていたんだろうなと思います。
今の若い人たちは、当時よりも分かりやすいゴールというか“入り口”があるし、目指すべきものに向かって一生懸命部活に打ち込めて幸せだなって。レベルもかなり上がってるでしょうね。

―本当にバスケに夢中だったんですね。

もう生活の中心がバスケでしたし、バスケでしか本気で悔しがったり泣いたりしたことはなかったです。……っていうところから芸人になって、スベって超悔しくて泣いたときに、「ああ、バスケ以上にアツくなれるもの、いまできてるぞ」と思ったのが、ひとつ感動した部分でもあるんですけどね。それくらい僕にとってはバスケはデカいもので、それこそ失恋したときよりも試合に負けたときのほうが悔しかったです(笑)。

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