ストリートスケートボードのリアルを知る最後の世代が出した答え、池田幸太 #2

どんな時代にもカリスマは必ず生まれる。池田幸太という稀有な才能を持ったスケートボーダーは、スケートボードが今のようにアスリート化する以前、いわゆるストリートカルチャーだった時代が生んだ、最後であり最高の傑作だ。

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スケートボードを取り巻く環境が様変わりし、父子鷹による教育の一般化やオリンピック種目への採用によってスポーツとしての側面が強くなった現在だからこそ、彼が経験してきたことや築き上げてきたキャリアは、日本のスケートボードシーンにとって貴重な財産となるに違いない。

パート2となる今回は、デッキスポンサーを獲得しに行ったアメリカへの3ヶ月1人旅から帰国後の大成功、そして20代後半で立て続けに彼を襲った不運など、山あり谷ありの波乱のキャリア後半を振り返っていく。

パート1はこちら

アメリカなんて二度と来たくない

ー前回で、生い立ちからスケートボードとの出会い、そして紆余曲折を経てようやく本格的なキャリアがスタートしたところまで聞きましたが、今回は10代の集大成として3ヶ月間アメリカに行った話から聞かせてもらえますか?

カリフォルニアは本当に大変でしたよ。マジでアメリカなんて二度と来たくないって思うくらい食らいましたね。何が食らったかって、まずお金がない。3か月滞在するには月5万円しか使えないからホテルにも泊まれないし、ご飯も節約しないとキツい。それなのに向こうはチップっていうお金を余分に払う文化があるから、「そんなの知らねえよ!」ってなるわけですよ。さらに車の免許もないから移動手段もない。おまけにケータイもガラケーの時代だから繋がらない。極め付けにパソコンも持ってなかったから連絡を取るツールすらない。

じゃあどうするかって言うと、日本にいる時に現地の友達にあらかじめ渡航便を伝えて連絡先を聞いておいて、着いたら向こうのケータイショップに行って、プリペイドっていう料金前払いのケータイを買って連絡を取るんですけど、そんなものは安物だから音質も悪くて聞き取りづらいっていう。

まあそれだけなら耐えられたかもしれないですけど、泊まるところに戻っても19歳だと皆と一緒にバーにもいけないから、1人だけトボトボ帰って暇してましたね。アメリカのTVは何言ってるかわからないし、YouTubeも見れる時代じゃない、ずっとそんな感じだったから、まずはそれに食らいましたね。

初渡米。ベニスビーチをバックにパシャリ

スケーターが多すぎてスポットが全部やられてた

ーその点今はスマホとWi-Fiがあるから進化しましたけど、初の海外は皆文化の違いに戸惑いますよね。ではスケートではどんなことがありましたか?

一番食らったのが、スケーターが多すぎてスポットが全部やられてたことですかね。ストリートに撮影に行っても、日本とは競技人口が全然違うから、スポットに着いて「このトリックやります!」って言ったところで、もうそれは20年前に誰々がやってるよとか、そういう話が多すぎて。

その時に自分のスケートボードが、情報とかいろんな面でアメリカに追いついていないんだなってのを思い知らされたんですよね。

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渡米時の映像も収録されたパート。本人の話を聞きながら見るとよりリアル

ーということは実際にそういう経験をしたんですね。その詳細を聞かせてもらえますか?

ウィリー・サントスっていうアジア系スケーターのパイオニアの親日家がいるんですけど、彼が有名なフォトグラファーを紹介してくれたんですよ。それがグラント・ブリテンっていう『THE SKATEBOARD MAG』っていう雑誌のフォトエディターをやっていた人だったんですけど、話を聞くと80年代にアメリカの『Transworld SKATEboarding』が創刊した時のフォトエディターでもあって、当時のボーンズ・ブリゲードとか90年代のジェイミー・トーマスとか、世界のトッププロを長年撮り続けてきたレジェンドだったんです。彼の作品を見たら、コレもアレも見たことあるって写真ばかりだったんですよ。

当時グラント・ブリテンがフォトエディターを務めていた『THE SKATEBOARD MAG』

撮れなくて本当にすいませんでした!

ーそれはブチ上がりますね!

もう「ウワー!」って感じで、「絶対何か撮らなきゃ!!」ってめちゃくちゃ意気込んで撮影に行きましたよ。でもLAのスポット事情はさっき話した通りで、誰もやってないスポットだとココだって連れていかれたところが、「いやいや……、ここはさすがに大柄な外国人でもやらないでしょ!?」みたいなハンパじゃなく難しいところだったんです。

で、結局できなくて、グラントに謝ったんですよね。紛れもない歴史的なレジェンド・フォトグラファーを目の前に、わざわざこんな異国から来た日本人の若造に時間を割いてもらったのに「撮れなくて本当にすいませんでした!」って。

ーライダーからしたら屈辱以外の何物でもないですね…

屈辱すぎたから、今までどこのメディアにも喋ってないんですよ。

その時に、カメラマンとストリートに行く時の本当の難しさとプレッシャーを感じましたね。だって向こうは歴史的なフォトグラファーで、スケーターなら誰でも知ってるような世界的なトッププロの有名なワンシーンを撮ってきたわけじゃないですか? そういう人と撮影に行くと、歴代のレジェンドプロスケーター達と比べられるんじゃないかとか、そういう未知なるプレッシャーみたいなのを知りましたね。あの時は相当食らいましたよ。大体のトリックはもう出てるから、本当にオリジナルか、本当にめちゃくちゃすごいことをやらなければアメリカの雑誌には出れないんだな、という現実を突きつけられた瞬間でしたね。

失敗も成功もいろいろ教わった

Clichéの話をもらった展示会ASRにて。左からウィリー・サントス、アンディ・マクドナルド、上田豪、そして池田幸太

ーでも大切なのはそこで諦めないことですよね。

そうなんですよ。実はこの時って1ヶ月くらいで既に日本に帰りたくなってたんですよね。「あと2ヶ月もあるの!?」って。でもそれじゃ目標にしてたデッキスポンサーは絶対獲得できないし、食らってからも半ば意地でずっと滑り続けてたんです。そうしたら、帰国直前に足を運んだ『ASR』っていう、日本でいう『インタースタイル』みたいな展示会で、<Cliché>からスポンサーの話をもらったんです。本当に最後の最後でした。

だから、どれだけ失敗しようがちゃんと前を見て進んでいれば、助けてくれる、手を差し伸べてくれるんだなという人生の勉強みたいのにもなりましたね。まあ大きな括りで言ったらこのトリップは失敗でしたけど、トライしてる姿勢を認めてくれた人達もいっぱいいて、そこからサポートが決まったので、ホント失敗も成功もいろいろ教わったなと思いますよ。

当時はクソみたいな3ヶ月だって思ってましたけど、この数年後にはグラントの写真ではなかったですけど、『THE SKATEBOARD MAG』にも載ることができたし、10年経った今考えるとコレで良かったなと思います。懐かしい想い出として消化されてますよ。

スケート人生最大の屈辱を受けた数年後に『THE SKATEBOARD MAG』で見開きをゲット。見事にリベンジ

ー帰国してからはどんどんステップアップしていきましたよね!?

この辺からは結構変わってきましたね。帰ってきたら、まず<Cliché>がついて勢いがつくんですよ。しかも<Dwindle Distribution>っていうアメリカ本社との契約だったから、海外からの直接サポートになるわけですよ。

国内の代理店契約ライダーはごまんといたけど、当時海外から直接デッキをもらってたの自分くらいだったんじゃないですかね。アメリカに行って、それでデッキスポンサーを獲得して帰ってくるなんて前例はほとんどなかったから、そのおかげで日本でもかなり注目してもらったんですよね。

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彼が苦労して獲得したスポンサー、Clichéの出演作品。ヨーロッパで撮影した数々のフッテージが収録されている

全て思い通りだった

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国内トップライダーを集めて行った台湾ツアー。この頃から国内トップライダーとの交流が増えだした

ーでもそれがやりたかったことなんですよね?

全て思い通りでしたね。それまで日本のメディアにはあまり出てなかったせいか、日本では自分のことを知らない人もいっぱいいましたけど、アメリカで認められたら日本でも絶対有名になるなと思ってたから、それがそっくりそのまま現実になりました。アパレルも<VOLCOM>とか大きな会社からのサポートだったし、皆が注目してくれてスポンサーとの契約金も跳ね上がっていったんです。

それと同時に雑誌も特集企画にバンバン出れるようになってきました。それこそブランドではなくメディアが企画したツアーだと、スポンサーの括りとかがない分いろんなライダーと一緒に動くことができるから、トランスワールドの『未来世紀台北』っていう台湾ツアー企画なんかを通して、戸枝(義明)君とか日本のトップと一緒に動けるようになってきたって感じですかね。

そういうトップの人達も認めてくれるようになって、どんどんいろんなところに行けるようになっていったのが自分の20代の始まりでした。

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同じくトランスワールドで企画された上海ツアー。彼はどちらのツアーでも表紙に輝いている

ーそこからはもうずっと日本のトップを走り続けていきましたよね。

雑誌の表紙も複数回とることができたし、絶えず何かしらのメディア露出はありましたからね。トランスワールドでは他に上海にも行ったし、ハウツーの講師もインタビュー特集もやらせてもらいましたね。『VHS MAG』ではGo Proを使って自分がホストを務める『REC ALL DAY』っていうミニドキュメンタリー企画も連載させてもらいました。他にもいろんなイベントに呼んでもらったり、デモも定期的にいろんなとこでやってたかな。

あとこの頃は、何かしらで常に海外と繋がってた時期でもありましたね。自分から海外に足を運ばなくても、例えば戸枝くんから「ロドリゴ・TXが日本に撮影で結構長期間滞在するんだけど、俺はこの間日本にいないから、そこは幸太がアテンドしてあげてよ」とか、そういうのも結構あったから、一番積極的に動いてた頃なんじゃないですかね。

もちろん俺は<Cliché>のライダーだったから、ブランドの本社があるフランスにもちょくちょく行ってたし、<DC>のアジアツアーなんて何回行ったか分からないくらいですよ。

『REC ALL DAY ft. KOTA IKEDA EPISODE1』

VHS MAGにて連載された企画。全10話構成となっており、プライベートな一面も覗ける内容に

俺のとった行動は間違いじゃなかった

<DC>とはアメリカ本社と契約を結び、ワールドワイドに活躍していた

ーDCとの契約も国内だったのがアメリカ本社にステップアップしましたよね。

そうなんですけど、それも<Cliché>の時のような、いろいろなストーリーがあるんですよ。って言うのも、日本の<DC>のチームマネージャーが変わっちゃって、それでアメリカ本社とも本国のライダーとも繋がってるのに、そんなこと無視で個人の都合で一方的に契約条件をムチャクチャ下げられちゃったんですよね。当時契約自体は日本だったから、こんなんじゃ契約なんてできねえって一度辞めたんですよ。

それで自由にフラフラしてたんですけど、そうしたら今度はアメリカの方から「どうなってるんだ!?」っていう連絡が来て。だから俺は日本の<DC>の状況を説明して、「これじゃ理不尽でやってられないから辞めた」っていう話をしたら、「それならアメリカと契約しろよ」って言ってくれて、本国と契約を結ぶことができたんですよ。

その時に俺のとった行動は間違いじゃなかったんだと確信しましたね。そうなったら当然日本の<DC>も認めざるをえないし、さらに契約条件も上がってっていう。やっぱりアメリカと直で繋がることは、スケートボードで食っていきたいんだったらメチャクチャ重要なことだと思いますね。

2014年のDCアジアツアーにてマレーシアのクアラルンプールでのデモ。後ろでエヴァン・スミスが見つめる中、特大のバックサイドフリップをメイク

ー間違いないですね。あとはトランスワールドの表紙も、もしかしたら池田さんが一番多いんじゃないですか!?

ハウツーも入れたら5回表紙になってますからね。もしかしたら一番多いかもしれないですね。原宿の明治通り沿いにあるギャップを早朝にオーリーで跳んだ時なんかは、場所も分かりやすいところにあるからか、かなりの反響がありましたよ。

今はそのトランスワールドも含めて専門誌はほとんど無くなっちゃいましたけど、表紙は皆が狙ってましたからね。いい時代だったなと思います。そんな感じで20代前半から半ばくらいまでは、<Volcom><DC><Cliché>で本当にいろいろ動きましたね。アメリカにも定期的に行ってたし、海外で活動するっていう子供の頃の夢が叶った時期でしたね。

スポンサーだった<VOLCOM>のイベントにて。こうしてキッズに夢を与えるのもライダーの仕事

時代の転換期

ーキャリアの絶頂期ですね。そこまでの存在になると、今度は池田さんの後を追うようなライダーも出てきたんじゃないですか?

近い世代なら隆平(北詰)ですかね。さっき言った『VHS MAG』のGo Proの企画とかも自分へのオマージュでやってくれたし、そういうのはありがたいですよね。それに隆平ならトランスワールドの表紙も十分にとれたと思いますけど、ちょうど狙ってたタイミングでオリンピック競技への採用が正式に決まったりとか、時代の転換期に差し掛かってたから、達成できないまま雑誌が休刊になってしまったのはかわいそうな気もしますけどね。ちょうど主軸がコンテストに移り変わっていくタイミングだったので仕方ない部分もありますが。

契約金=ライダーの価値

ーただそういうコンテスト寄りになっていく時代の流れもあって、自身の身にも20代後半からいろいろな変化が起こっていきましたよね。

ですね。20代後半からそれまでの流れが少しずつ変わり始めていったんです。

そのうちの1つはスポンサーですね。まあこれは自分じゃどうしようもないことだったんですけど、ブランドを運営する会社の経営がうまくいかなくなってたんですよね。<Cliché>に関してはブランド自体が消滅してしまったし、他のスポンサーもそれまで長年一緒に活動していたスタッフが切られちゃったりってことがあったんです。当時は冷静に考えて「かなりヤバイんだろうな」とは思ってたんですけど、案の定次の契約で金額が半分以上下がっちゃって。

ただ自分は“契約金=ライダーの価値”だと思っているから、それが1円でも下がる場合は辞めるというのは昔から決めているんですよね。だから流石にこんなに下がるならサインできないですって言って契約を解除したんです。

会社の売り上げが下がるとライダーの契約金も下がるのは仕方ないことだとは思いますけど、正直そこに情を移して「いいですよ」って言ってしまったら、自分の価値が下がると思うし、プロである以上活動に見合った金額がもらえないんだったら辞めるくらいの覚悟は必要だと今でも思っています。

ー日本は義理人情を重んじる文化があるけど、プロとしてやっていくならそう言ったドライな感情も持ち合わせる必要がありますよね。今までの池田さんの生き方を聞いてると、そう言った芯の強さを感じます。

実は<adidas>と契約したのもそんな感じなんですよ。<DC>はしっかりアメリカと契約していたしうまくいってたんです。でも、実はかなり前から<adidas Skateboarding>が日本でちゃんとできるようになったら来てくれとずっと誘われ続けてたんですよね。それで、実際にその時が来たんです。

あと当時の俺は天狗とまでは言わないですけど、山の頂上にいた時期だったのでプロとしてお金出してくれるならいいですよっていう感じだったんですよね。それに<adidas>はそういう自分のプロ意識も買ってくれたし、それなら行ってみようかなという形で契約したんですよね。

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adidas時代に制作した作品。村岡洋樹とともにメインキャストで出演している

悪いことが次々に起こり始めた

ーでもそこからはケガがあったりとか、少しずつ歯車が狂い始めたようにも見えましたが、実際のところはどうでした?

本当にその通りで、なぜか<adidas>に変わった瞬間に悪いことが次々に起こり始めたんです。

スタート当初は僕と洋樹(村岡)君しかライダーがいなかったんで、まず2人に新作の靴が送られてくるんですよ。でもその時はなぜか違うサイズが届いて。おかしいなと思って確認したら、お互いの家を間違えて送ってたのが分かったんです。それだけならまあ仕方ないかで済むんですけど、当時はお互いそんなに遠くないところに住んでたから、車で届けに行って会って交換しようってことになったんです。そうして洋樹君の家に向かってたら、到着の直前で車をぶつけられちゃって。不幸中の幸いで自分は大事には至らなかったんですけど、車は廃車になっちゃったんですよね。

そういうのもあって、この頃から「あれっ、何か運が良くないな」とか考えるようになっていったんですよね。もともとそういうのは全然気にしない性格だったのに。

ーそれで結局流れは止まらずスケート人生初の大ケガを負っちゃったわけですね。

10代でスケボーで生活できるようになってからは、スネすら打ったことないんじゃないかってくらいケガはなかったんですけどね。1回だけの骨折ならまだしも、1年も経たない間に2回目の骨折もするし、挙げ句の果てには地面から跳ね上がるくらい後頭部を強打して、初めて入院ってのも経験したし、記憶も飛ばしてるんです。

そんなことが立て続けに起こったのが20代後半だったから、本当にいろんなことを考えた時期でしたね。

それに<adidas>に入った理由のもう1つが、俺をずっとチームに誘ってくれた人と仕事したかったからなんですけど、結局ライダーをコントロールしてるところは全く別の部署で、社内統制が上手くいってなかったのかそれも叶わずって感じだったんですよ。あくまで俺は外からの契約ライダーだったから、そういう内輪事情に嫌気が差した部分もあって<adidas>との契約を解除したんですよね。

もちろん会社自体は大きいしどんどんライダーも増えていったんですけど、チームに普段から一緒に動いてたようなスケーターはいなかったし、ケガもするしであまり良いことがなかったのもあって、このままチームに居続けても自分にとってプラスにならないなと思ったんですよね。それにちょうど30歳にもなったことだしこの辺が潮時かなって。もちろん仲が悪くなったとかそういうのではないですよ。皆はまだチームにいてほしいと言ってくれましたし。

頭を強打して病院に運ばれた記憶がない池田幸太。20代後半は立て続けにケガに見舞われた

今度は違った山に登ってみたい

ーそうして今に至るわけですね。まさに波乱万丈のスケート人生ですね。では最後に20代までのキャリアを振り返った率直な気持ちを聞かせてもらえますか?

王道かもしれないですけど、山あり谷ありのキャリアでしたね。でも、今はそれで良かったかなって思います。っていうのも頂上にいた時はそりゃ良い眺めでしたけど、同時に何か物足りなさも感じていたんですよね。山の上はめちゃめちゃ景色は良いけど、そこにはコンビニも何もないし、しがらみもたくさんあったから自由にはできないみたいな。

それが1回こうしてメインスポンサーが全てなくなって落ちるところまで落ちるって経験をすると、今度はまた違った山に登ってみたくなるというか、今はそんな心境です。だから、30代はまた違った山の頂上を目指していきたいなと思いますね。

こうして自身のこれまでのキャリアを振り返ってくれた池田幸太。

スケートボードをしている者ならば、誰もが一度は想い描く”プロスケーターとして食っていきたい”という夢を実現させた彼の言葉には、実体験に基づく重みが詰まっていた。

パート3では、30代を迎えた今の気持ちや活動内容、そして想い描く未来予想図を語ってもらった。

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