ストリートスケートボードのリアルを知る最後の世代が出した答え、池田幸太 #1

コロナ禍による全国一斉休校が発端となり、学生年代を中心に爆発的ブームを巻き起こしているスケートボード。来夏に延期されたオリンピックでもメダル獲得の有力種目と目されており、注目は高まるばかりだ。
しかし、今でこそ天井知らずの盛り上がりを見せているスケートボードも、過去には時代に翻弄されながら様々な浮き沈みを経験してきた。

ブームを振り返ってみると、直近では10年近く前の<ペニー>や<バナナボード>に代表されるバイナルクルーザーが思い出されるが、これはいわゆるメインストリームから外れた例外的ジャンル。そのため本来のスケートボードカルチャーと密接にリンクするブームとなると、90年代後半にまで遡らなければならい。

そう、ストリートカルチャー全盛期と言われる時代だ。

当時はヒップホップやメロコアなどのカルチャーミュージックとともに、裏原のファッション文化が大きな盛り上がりを見せ、同時にスケートボードもストリートを中心に眩いばかりのスポットライトが当たっていた。そしてこの時代に育まれたユースカルチャーは、今に続く様々な事柄の潮流にもなっている。

オリンピックにおけるスケートボードの種目名のひとつがストリートと呼ばれているのは、その最たる例と言えるだろう。しかし今のオリンピック戦線を戦うライダーに、この時代を知る者は誰1人いない。

では、そこを知る最後の世代は誰になるのかというと、1つの答えに行き着く。

池田幸太というスケートボーダーだ。

しかし類い稀なポップネスとカリスマ性あるキャラクターで一時代を築いた彼も早30代、ライダーとしての岐路に差し掛かった。

そこで、ここではストリートカルチャーのスケートボードを生で見てきた最後の世代ならではの貴重なキャリアを振り返ると共に、現在の活動と彼にしかできないであろう今後の展望、そして普段は見せないプライベートな一面にまでフォーカスした特大インタビューを、全4部に分けてお届けする。

パート1では、彼の生い立ちからトップスケーターへの階段を駆け上がっていく輝かしいキャリアの前半を振り返っていきたい。

完全に普通の子じゃない

この幼少期の壮絶な体験が後の人生に大きな影響を与えることに

ーまずは幼少期の話から聞きたいのですが、どんな子供でした?

相当変わったガキでしたよ。って言うのも、実は俺、5歳の頃に隣の家の女の子を交通事故で亡くしてるんですよ。生まれて初めて友達になって、物心つく前から一緒に遊んでた子を。それこそ3~4歳の頃なんて毎日遊んでたから、そんなコがある日突然いなくなっちゃうんだから、いきなり人生における衝撃ですよね。「えっ、もう遊べないの!?」みたいな結構な壁にぶつかったんですよ。

5歳なんて人の死を受け入れられる年齢じゃないのに、こんな早い段階で思い知らされたのが、結構な変わり者になるきっかけだったのかもしれないですね。

ーいきなりドラマのような展開ですね。衝撃すぎてなんて言っていいか分からないです。

でもそれで終わりじゃないんですよ。小学生になったら、今度はおじいちゃんが名古屋で倒れちゃって。

小学校1年生なんてまだまだ母親と一緒にいたい年齢だし、俺なんてその前に友達を亡くしてるからかなりの甘えん坊だったんですよね。でも母親は名古屋に行って看病せざるをえず、結局俺はおばあちゃんに育てられてっていう環境でした。もうこの時点で完全に普通の子じゃないですよね。

母親との1枚。その後小学校1年生で離れ離れに

ーだからこそストリートシーン真っ只中にあったスケートボードに出会ったのかもしれないですね。

かもしれないですね。始めたのは確か10歳くらいの時なんですけど、当時のスケートボードは皆と集団行動ができないヤツとか、不良と繋がりがあるヤツが始めるような感じでしたからね。特に俺が生まれた東京の足立区っていうトコは、ヤンキー気質と言うか、不良文化やケンカが身近にあるエリアだったから、余計にそういう色が濃かったんですよ。基本的に普通の人はいないし、少数派の人間ばかりが集まってたから、もうスポーツではなく完全にカルチャーですよね。

ーまさに出会うべくして出会ったって感じですね。その上で本格的にのめり込んだエピソードも聞かせてもらっていいですか?

それで言うなら、昔ってその辺にスケボーが落っこちてたりしたんですよ。それを拾ってきて、公園で皆で遊んだのが最初かな。でもそこで「スコーン!」ってコケて、めちゃくちゃ痛い思いをして。その時は「もう一生やんねー!!」なんて思って捨ててきたんですけど、なぜか何日か後にまた拾っちゃったんです。そうしたらそれがめちゃくちゃ乗りやすくて。今思うと、最初に拾ったのはクソみたいなオモチャだったんですけど、2回目に拾ったのはそれなりにしっかりしてたから、いきなり移動とかできるようになっちゃったんですよね。

そんなエピソードがありながらの、ジャッキー・チェンが主演の『シティーハンター』の実写版の映画で、スケボーに乗って敵から逃げるシーンを見て「コレしかない!」ってビビッときて、本格的にのめり込んだ感じですかね。映画がきっかけって言うと、スケーターなら『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とかが王道なんですけど、俺は流行った映画は見ないし、子供の頃に皆が見るようなアニメも見ない。当時から「なんでそんな胡散臭えの見てんだよ」って小生意気なこと言ってましたね(笑)

プロスケーターを目指してる時点で頭おかしいんじゃないの!?

まだあどけなさが残るスケートボードを始めたばかりの頃

ーその辺が池田幸太らしさですよね(笑)。

でも中学生の頃には、同じような活動をしている同世代がいなかったにも関わらず、すでにスケートボードで食べていくと決めていたんですよね?

周りには相当反対されましたけどね。なんせ当時のスケート業界は酷かったですから。今はオリンピックもあるし、コロナ禍でギアも売れているみたいだからスケートバブルって言えると思いますけど、その前のバブルは俺がスケボー始めたての頃、淳之介(米坂)君とか晋(岡田)君とかがバリバリの現役で、アメリカに行ってた90年代後半だったんですよ。

俺はそれを生で観て「こうなりたい!!」って思ったんですけど、目指しだした頃には既にそのバブルは崩壊してて。だから「お前は何を言ってるんだ?」とか、プロスケーターを目指してる時点で「頭おかしいんじゃないの?」っていろんな大人に言われましたよ。

それこそ本田圭祐みたいにサッカーで成り上がるって言った方が、なれる人は少数だけど成功したらお金は稼げますからね。けど当時のスケートボードは人口も少ないし、成功者って言われる少数の人間になれたところで「お金は稼げるのか?」って親にも止められたし、学校の友達も「プロになって何になるの?」みたいな。なんせ一番流行ってない時期だったしスポーツ選手だとも思ってもらえないような時代だったから、常にそんな目で見られてましたね。

ーそれでも突き進んでしまったっていうところに、突き抜けていく人全てに共通するメンタル的特徴を感じますけどね。

いや、俺は単純に「アメリカでプロになれば良いんじゃないの?」って思ってたんですよね。それこそ日本でプロになっても周りの大人の言う通りお金なんて稼げない生活だったと思いますけど、アメリカのプロは皆スゴイじゃんって。当時はSNSもないし、今ほどプロスケーターの普段の生活は見えなかったけど、『411VM.』の「DAY IN THE LIFE」とかに出てくるプロスケーターの豪邸が本当にスゴかったから、アレを見ちゃうと、アメリカでプロになればこうなれるんだなっていう。まさにアメリカンドリームですよね。

もちろん当時はどういう風にしたらお金がもらえるとか、そういうことは全く分かってなかったんですけど、なんかこのまま行きたくない学校に行き続けて、やりたくもない仕事をするのは死んでも嫌で。とにかく集団行動がハンパじゃなく嫌いだったんですよ。

当時のトッププロ、ジェフ・ロウリーとFlipのジャパンツアーにて。この頃からすでにプロになることを固く決意していた

もしなれなかったら死んじゃえばいいや

ーでは学校にも行ってなかったんですか!?

中1の夏休みが終わってからは、全く行ってないですね。こんなヤツらといても無駄だって思ってたから、ココで俺が学ぶものは何もないって。だから俺の中では中1の夏からずっと夏休みだったんですよ(笑)

当時はそれこそスケボーしまくったり、ちょっと悪い友達や先輩と遊びに行ったりとか、そんなことをひたすらやってましたね。だからアメリカでプロスケーターになりたいのプラス、なれなかったら人生終わりでしょくらいのギャンブルというか、それくらい腹をくくってたんですよ。もしなれなかったら死んじゃえばいいやって本気で思ってたんで。それくらい周りの皆と同じ道を歩みたくなかったんですよね。本当に極端な性格なんですよ、俺って。

ーそれも17歳くらいの頃に転機というか、一度スポンサーを全部辞めてますよね? そこからのステップアップとかは考えてなかったんですか?

この頃には既にデッキとかシューズも全て支給してもらってたんですけど、中学にすら行ってなかった分、同世代の友達とかもいたけど、先輩といることもすごく多かったから、変にマセてたんですよね。だからこの会社のライダーじゃ無理だなとかいうのも悟っちゃってたというか。ココはスケートボードにそこまで力を入れてないなとか、先輩達もそんなにお金もらってなさそうだなっていうのが分かってきちゃって。それならココで一番になっても意味がないなって思ったんですよね。だったらもっとちゃんと契約してくれる会社で、ライダーの活動に対してしっかりお金を払ってくれるところに行った方が良いなって思ったから辞めたんです。

でも、もちろんケンカしてやめた訳じゃないですよ。それこそ当時メーカーの社員だった人に相談して、自分の意見を伝えたんです。そうしたら「やっぱりこれ以上は無理だし、幸太がやりたいんだったら他に行った方がいいよ!」って言ってくれて。そうやって良い悪いをちゃんと教えてくれる大人が周りにいたので、自分は出会う人にも恵まれてたと思いますね。

この頃には身につけているギアはすべて支給されていたものの、さらなるステップアップを目指して契約を解除

ーそれで今度はいよいよ海外に目がいく訳ですね。

そうですね。ちょうどその頃にカナダから帰ってきたブチ君(川渕裕聡)と一緒に滑るようになったんですけど、ブチ君はウェイド・デサーモとかスペンサー・ハミルトンとかと一緒に滑ってたから、彼らがアメリカで売れ始めた頃の話を直で聞けたんですよ。カナダの代理店がこれだけお金を出して、ヤツらはアメリカに行ってっていう裏話まで。それを聞いちゃうと、やっぱり自分もそれくらいサポートしてもらえるところに行かないとダメだろって思って。当時としては貴重でリアルな情報が聞けたから、一度スポンサーを全部辞めたのはそういう理由もあったんですよね、より上を目指すために。

俺には登竜門なんて必要ねえ!

ーそこからはもう国内で地盤を固めるより、いきなり海外でやってやろうと?

当時はメディアもあまりなかったですからね。専門誌は『TRANSWORLD』くらいで、あとは『Samurai magazine』とか『Ollie』があったくらいかな。でも俺としては別にそこに出てもみたいな感じだったんですよね。

とにかく当時の俺は自信満々で、「俺が日本で一番ヤバい!」って本気で思ってたし、「こんなメディアなんか出たくもねえし、こんなヤツらと一緒のページなんて出てらんねえよ」みたいな生意気な十代でしたね。まあ完全に若気の至りなんですけど(笑)

だから、この頃ってあまりメディアに出てないんですよ。

ローカルだった川口のスケートパークにて。とにかく自信に満ち溢れていた十代の後半

ー確かトランスワールドで特集記事にちょっとだけ出てたくらいですよね!?

<Expertise>とかアップカマー特集くらいですかね。実はその前にCHECK OUT(当時唯一の専門誌だった『TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN』で期待の若手が必ず通っていた登竜門的な名物企画)やろうよって話ももらってたんですけど、CHECK OUTに出てるヤツはダサすぎるから嫌だって断りましたからね(笑)。特集みたいなのじゃないと嫌だって。

「俺には登竜門なんて必要ねえ! 階段一段飛ばし二段飛ばしで駆け上がってやる!!」って本気で思ってたし、他の皆とは違うんだって頑なに信じきってて。まあその辺は幼少期の経験も多分にあったと思いますけど、普通の若手とは違ってたから、周りの大人は大変だったと思いますよ。

ーそれで実際に初めて海外に行った訳だけどどうでしたか?

ケガをしていてほとんど滑れなかったんですけど、一言で言うと「あっ、なんだ。こんなもんか、日本と大して変わらねえじゃん!」って、また調子こいちゃったんですよね(笑)

当時の俺の気概を浦(友和)君が認めてくれて、「お前面白れーな!」って感じで、当時あった<Expertise>っていうドメスティックのデッキブランドチームに入れてもらったんですけど、多国籍な顔ぶれだったから、チームライダーの故郷だったニュージーランドにツアーで行ったんですよ。そこで「なんだ楽勝じゃん」みたいな。

『Expertise』

YouTube

ケガのため本人のライディング映像は少ないものの、初めての海外ツアーとなったExpertiseのニュージーランドツアー

アメリカのプロってヤベえ……

DCのアジアツアーにて。コリン・マッケイやマット・ミラーなど錚々たる面子とのツアーとなった

ーまさに若さゆえの勢いと怖いもの知らず具合って感じですね。

間違いないですね。でもその後のDCのアジアツアーでは結構食らったんすよ。スケート人生ではこれが初めてかな。

この頃、浦君にはいろいろお世話になってて、その紹介でDCもサポートされるようになったんですけど、まあ俺は大口叩いてたわけですよ。「とにかく俺を売り出してくれ。使えるお金を俺に全部回してくれれば、すごい目立ったことできるから」って、そんなことばかり言いまくってたんですよね。そうしたら当時のDC JAPANのチームマネージャーがすごく理解のある人で、アメリカ本国ライダーとのアジアツアーの枠をゲットしてくれたんですよ。「お前それだけ言うんだったら、これで1人で行ってこいよ!」みたいな。まあ今思えば10代の若造だった俺は試されてた訳なんですけど、案の定ソコで食らって。「アメリカのプロってヤベえ……」みたいな。

でも食らっただけじゃなくて、その中には可能性も感じてたんです。英語はよく分からなかったけどそれなりにコミュニケーションも取れたし、本国のチームマネージャーも、この時一緒だったウェス・クレマーとか、エバン・スミスとかライダー達も「アメリカに来いよ!」って言ってくれたし、「それならもう行くしかねえな」みたいな。

同じくDCのアジアツアーにて。PJ・ラッドらと共に上海でデモもこなしていた

ー今やトッププロの2人ですね。いや、もうベテランって言っていいかも。

でも当時はまだまだでしたよ。エバン・スミスなんてまだ18歳くらいで<フロウ>でのサポート、完全に下積み時代でしたね。しかもデッキスポンサーもなかったから、先輩のプロのお下がりのデッキをもらってデモをこなしてたくらいです。このツアーは、そういう俺と同じような経験をしているアメリカの同世代と仲良くなれたのが大きかったですね。こいつらがいるなら行ってみるかって思えたというか。だから食らった面もあったけど、最終的にはいい感じでデモもできたし、収穫は大きかったんですよね。

スケーターは絶対トントン拍子でいく

『KOTA IKEDA Japanese Bushi!!_Skateboard』

YouTube

デッキスポンサー獲得のため渡米前に過去のフッテージをかき集めて急遽作ったパート

ーそれからすぐにアメリカに飛び立ったんですか?

俺は思い立ったら早いですから。アジアツアーを通して海外でもなんとか結果を残せたのもあって、次の契約でようやくDCからお金が出るようになったんですよ。だからそのお金が入金されたら、すぐさまアメリカ行きのチケットを取って丸々3ヶ月行ってきたんですよね。当時の俺もエバンと同じでデッキのスポンサーがなかったから、スポンサーミーのビデオテープを急遽作って、知り合いを訪ねて一人旅に出たって感じです。

渡米前、2009年のインタースタイルのコンテストで優勝。この頃から彼の名は一気に全国区に

ーこの辺りからようやく軌道に乗り始めるって感じですか?

そこからは比較的トントン拍子で話が決まっていったから、そうかもしれないですね。やっぱりスケーターはスポンサーをつけるまでが大変なんですよ。俺の場合はあの幼少期の経験があっての、捻くれ者で極端な自信家の性格が奏功したのもあるかもしれないですけどね。

あとはちゃんとした会社を選べたのがデカかったかな。もし一番最初についたスポンサーのまま活動してたら、絶対にここまでこれなかったと思うので。だからちゃんとした会社の見極めができて、なおかつ自分に見合った活動ができていればスケーターは絶対トントン拍子でいくはずなんですよ。でもそれができてる人は本当に少ないなと思いますね。

まあ今の若い子達は状況が自分たちの頃とは全然違うから一概には言えないですけど、あえてキツいこと言うなら、「大人が全部やってくれるからバカばっかなんじゃねえの?」って思ったりもしますよ(笑)

ーいきなり池田幸太節が炸裂しましたね(笑)

でも、今はそれくらいのこと言う大人も時には必要だと思いますけどね。実際この後に3ヶ月間1人でアメリカに行った時は、スケート人生最大の屈辱も味わってるんで。こういう経験は大人が一緒についていく今の時代じゃ経験できないと思うから、せっかくの機会だしここで伝えようと思ってて。30代に突入した今だから話せますけど、20代の頃は屈辱すぎてマジでどこのメディアにも話せなかったんですよね。

ここまでの話を聞くだけでも、既に池田幸太という時代が生んだ稀有なスケーターは、実に波乱万丈の人生を送っている。そして彼がアメリカで味わわされた、スケート人生最大の屈辱とはどう言った経験だったのだろうか。まだまだ彼のスケートヒストリーには山あり谷ありの道が待っている。

(パート2に続く)

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