原カントくんの『いや~仕事って本当にイイものですね』#1 水道橋博士

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水道橋博士:改まってカントくんからインタビューされると、なんか照れるね。

原カントくん(以下、原):こちらこそ恐縮です。本コーナーは、各界で活躍している著名人の、かつて泥水すすったエピソードを伺うインタビュー企画なんです。その記念すべき第1回は、是非、僕が敬愛する水道橋博士さんにお話を伺いたい、と思って。

博士さんは、たけし軍団という、もはや異世界みたいな場所にいきなり入門していったわけなんですけど、当時はどんな状況だったんですか?

水道橋博士(以下、博士):その頃の自分は、ほぼ引きこもりっていうか、明治大学に入学して上京してきたんだけど4日間しか行ってないし、取得単位0。で、4年間過ぎて、周囲は就活しているんだけど、俺には、もはや人生の居場所がないところだった。たけし軍団に入るときに、自分の退路を断って来たんだよね。

原:ご家族にも言わずに大学を辞めて、たけし軍団に入られたんですよね。

博士:うん。親も、子供がいつの間にか消息不明になっていて心配していたら、気がついたら浅草のストリップ小屋にいたわけだから。だけど、その中で俺や相方の玉袋筋太郎が強かったのは、貧乏の志願兵だったということ。浅草フランス座で食うや食わずの日給1000円。それもビートたけしさんのストーリーを読んで、そのストーリーをなぞりたいと、自らそうなりたいと思って入ったわけだから。

そこで、辛苦をなめることを厭わなかったし、現代では珍しいほど、本当の飢餓みたいなものを味わいましたね。

原:この現代日本で飢餓が存在するんですね。浅草キッドの著書『キッドのもと』(筑摩書房)にも、のり弁の磯辺揚げが合法ドラッグかのように描かれていましたね。あのエピソードが最高に好きで。

博士:そう。当時ろくなもん食べてないから、磯部揚げを食べた瞬間だけが「キク―!」って、毛細血管を通して身体に油がまわっていく感じがね。だけど、それを望んでたけし軍団に入ったわけだから。

あの本は、現代の蟹工船だって評されたよ(笑)

原:博士さんは、たけしさんが通った道のりということで、貧乏や過酷な世界は耐えられたと思うんですけど、先輩方の理不尽な命令や要求も相当あったと思うんです。そこについては、いかがでしたか?

博士:基本的に、当時のたけし軍団は、パワハラとモラハラとセクハラで成り立っていた組織だからね。

原:なぜ耐えられたんですか。

博士:それも自分のストーリーだと思ってたから。自分が先輩に殴られてる瞬間に「ああ、これは物語のようだ」って思うんだよ。だって、そんなことは今までの退屈な日常になかったわけじゃん。朝に目を覚まして「俺の師匠はビートたけしなんだ」と思って、テレビの中にいる、たけし軍団に、めっちゃ理不尽なことを言われて、「あ、殴られた」っていうのが、自分にとって刺激的、物語的だったよね。

原:しばらくは浅草フランス座で働きつつスナックのボーイをされていて、そこも、むちゃくちゃな時給で働いていたっていう話も聞いたことがあります。

博士:毎日16時間労働。浅草フランス座で8時間、フランス座の社長が経営するスナックで8時間働かされ、全部で1000円。時給60円。社長にお客さんからもらったチップまでスナックの社長に巻き上げられていたからね。

原:現代日本で数少ない民主主義が適用されてない場所ですよ。当時は飲みに行くお金とか全然ないと思うんですけど、何を食べていたんですか。

博士:そういえば、近くに吉野屋があって、たまに牛丼を食べてたんだけど、それで白菜の漬物をテーブルの下に隠してさ。そういう食い逃げをやってたの。だけど罪の意識があったから、玉袋がフランス座を引き払うときに謝りに行ったら、店長に「そんなの気がついてたよ」って言われたね。

原:そのエピソードも、物語の中にいる自分として今だから語れると思うんですけど、もしかしたら物語が成立しないまま、終わった可能性もあったわけじゃないですか。

博士:あるね。

原:同期や同じ年代の仲間たちがどんどん社会に出て有名になっていくと、肉体的より精神的なつらさがあったのではないでしょうか。

博士:あの時、毎日、膨大な日記を書いていて、日記に異常に執着してたのは、自分が負けてしまう物語もありだと思ってたんだよね。

原:それ面白い。

博士:だからこそ、その物語のディテールを細かく日記につけてるんだよね。あと手帳なんかに日々、ダンカンさんとの勝敗表とかつけてたからね。

原:なんの勝敗何ですか?

博士:今日はダンカンさんにめちゃめちゃ怒られたけど、精神的に俺は勝ってたか負けてたかっていうさ。

原:自分の中だけで勝手に勝負をしかけていたっていう。たけし軍団の中でもダンカンさんに付いてた時代って、ダンカンさんが作家をやっていたから、みんなが遊びに行ってる間も作家の仕事の手伝いもやってたわけですよね。フランス座を抜けたあとも。

博士:そう。オレ一人だけ遊びにも行かずに、無給でね。「1000本ネタノックだ」つって「明日までにネタ1000本書いてこい」とかさ。

原:明らかに無茶ですよ。

博士:だけど、限界の30本でも書いていくことに意味があったんだよね。ダンカンさんは自分でもやるからね。そこは偉いよね。

原:博士さんが一番、寝なかった時期っていうのは……。

博士:その頃だよね。ダンカンさんの付き人をしながら、たけし軍団が週5本ぐらいのレギュラーがあって、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)、『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)、『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)の作家にも入ってたんだよね。ダンカンさんが一番寝てない時期だけど、そのダンカンさんをボクが深夜、寝かしつけてたからね。「水道橋くん、子守歌を歌ってくれ」とか言われて。

原:博士が永眠しかねませんよ。

博士:「寝ない、食わない、死なない」が当時のモットーだった。

原:「寝ない、食わない、死なない」を3カ条にして頑張ってたっていう。

博士:いや、本当に寝なかったね。

原:軍団さんも……。

博士:みんなテレビ局のトイレで交代で寝てたから。

原:壮絶ですね。

博士:それに加えて軍団の草野球の試合もあったしね。年間100試合。道具係に加えて、そのスコアラーもやらされていたから。

原:そもそも、それは仕事なのかっていう。

博士:先乗りスコアラーもやったことがあるよ。草野球だよ! 次に軍団と当たるチームの分析。河川敷に行って、そこの商店街のよく分からんチームのオーダーを全部書いて。スコアをつけるの。あの時が一番「俺なにやってんだろう」と思った。

原:でも、ある時から浅草キッドがブレイクしていった。

博士:俺たちはネタをやったっていうのが大きいと思う。その頃、軍団が集団芸しかやってなくて漫才はやってなかった。

それで「俺たちは漫才をやりたい」って言ったのが大きいよね。「テレビ演芸」の10週勝ち抜きとか、コンテストで全部勝ったしね。

原:芸人としてネタをやり出したら、芸人としてのヒエラルキーはまた別の次元で一番下から始まると思うんですけど、ネタをやれる喜びのほうが、つらさに勝っていたんでしょうか。

博士:そうだね。今はもう芸人って40歳ぐらいにならないと出て来られないじゃん。そういう意味じゃあ俺たちは恵まれていたかもしれない。下積みっていうのは3年ぐらいで、20代で俺たちはレギュラーを何本も持ってたもん。ラジオ番組もやってたし。

原:今って、当時の軍団さんからするとあり得ないような、簡単に言うと、ホワイトな世界で、働き方改革が進んでると思いますけど、博士さんから見てそういう動きはどう思われますか。

博士:良いことだと思うよ。当時のたけし軍団って、パワハラ、セクハラされて、いかに笑わせるかみたいなことだから、時代とともにたけし軍団が絶滅したのは必然だよ。

原:恐竜が絶滅するかのように。今みたいにネットがあったら、確実に大問題になってますよ。

博士:芸自体がね。でも、たけし軍団自身が自分たちの芸を、ダチョウ倶楽部や出川哲朗くんみたいな、それでも残っていくような形に変えられなかったことは失敗だと思ってる。だって、そもそも熱湯風呂なんか、たけし軍団の伝統芸だったわけだから。

原:テレビジョッキーでやってましたもんね。でも結局は、出川さんやダチョウさんの芸として認知されてます。振り返ってみて、当時の自分に戻ったとしてもう一度同じことをやれると思いますか。それとも二度とやりたくないですか。

博士:自分の子どもにさせたいとは思わないねー。自分が親ならすごく心配だなって。逆に言えば、あの時、親はいかに心配したんだろうと思うからね。

ただ、振り返るに、あの頃の自分がけなげで、いちずで、一心不乱だった。そこに関しては、よくやったと思うけどね。

「たけしの弟子になる」という野望を秘めて、23歳のときにたった一人で有楽町のニッポン放送へスクーターに乗って向かった瞬間っていうのはさ、その勇気を本当に褒めてやりたいよ。あの行動で自分が自分の人生を全て変えたことに。

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