ルールを破っても自らの信じる“正義”を遂行する ノーラン監督版「バットマン」はアメリカの闇を描いた?

現代のハリウッドにおいて、スーパーヒーロー映画は欠かせないものになっている。毎月のようにスーパーヒーローが登場する作品が公開されているといっても過言ではないだろう。マーヴェル、DC、ダークホースコミックスを原作とするスーパーヒーローたちがスクリーンを所狭しと活躍し、観客を魅了し続けている。

Warner Bros. Pictures/YouTube

しかし、70〜90年代初期の分かりやすい勧善懲悪的なストーリーに比べると、ここ15年程のスーパーヒーロー映画は原作漫画のジャンルを活かして様々なテーマを観客に提示し、より深いところでの問題提起を含むようになっている。

単純明快で大衆文化としての位置付けが強かったスーパーヒーロー映画にそういった側面を与えるようになった作品の代表格として、クリストファー・ノーラン監督による『バットマン ビギンズ』(2005年)、『ダークナイト』(2008年)、『ダークナイト ライジング』(2012年)からなる「バットマン三部作」が挙げられるだろう。それまでのスーパーヒーロー映画には薄かったリアリティが前面に押し出され、スーパーヒーローやヴィラン(悪役)の姿を生々しく描くとともに、現代社会の抱える問題にも深く切り込んでいくようになった。

そもそも映画は「時代を映し出す鏡」としての役割を持っている。製作者が意図せずとも、制作した国の時代の空気が必ず切り取られ、ストーリーやビジュアルにもその影響が表れる。では、スーパーヒーロー映画の系譜に一石を投じることとなったノーラン監督の「バットマン三部作」の派手なアクションや、ストーリーの裏側にはいったいどのような物が含まれているのだろうか。

この問いに対して様々な研究者たちの分析を引き合いに、「バットマン三部作」を深く読み込んだのが、作家であり自身も研究者として活動する遠藤徹氏の著書『バットマンの死:ポスト9・11のアメリカ社会とスーパーヒーロー』(新評論)である。

著者は、コウモリのコスチュームに身を包み、内なる苦悩や衝動を開放するために、社会的なルールから逸脱してでも自らの信じる“正義”を遂行するバットマンこそが、アメリカ同時多発テロ以降のアメリカ政府を隠喩していると分析する。

2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ」という理不尽な暴力は、アメリカ国民に大きなショックを与え、恐怖や苦悩を抱え込ませることになった。一方で政府はすぐさま報復に動き出し、アフガニスタン侵攻、さらには大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由としてイラク戦争に踏み切った。しかしイラク国内に大量破壊兵器がなかったことが、その後明らかになっている。あくまでも1つの視点からの意見ではあるが、ノーラン監督の描いたバットマンは倫理的にあいまいだったアメリカ政府の施策を写し取ったものとも言えるのだ。

映画で活躍するヒーロー像に仮託されたイメージを言語化し、切り取った時代の空気を読むことで、これまでとは違った作品の見方をできる1冊。興味のある方はぜひ手に取ってみてはいかがだろうか。

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